聖書のみ言葉の力
聖書のみ言葉には、力があり、人の心を変え新たにする力があります。
また、人を慰め励まし勇気を与え、そして希望を与えるのです。
そのような聖書のみ言葉の力を体験をした人は、今まで、世界中で数え切れないほどの人がいるのです。
ローマ人への手紙15章4節(新約295ページ)には、次のように書かれています。
「・・それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」
また、創世記を見ると、世界は神様の御言葉によって創造されたことを知ります。
創世記1章3節(旧約1ページ)には、
「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった」と記されています。
神様の力あるみ言葉で世界とそこに存在する全てのものが次々と創造されたのです。
世界とそこにあるものを造られた神様は、その造られたものを支配し維持されます。
詩編147編15節〜18節(987〜988ページ)を見て見ましょう。
「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。羊の毛のような雪を降らせ 灰のような霜をまき散らし 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。御言葉が遣わされれば、それは溶け 息を吹きかけられれば、流れ水となる。」
聖書は、たくさんの約束に満ちていますが、聖書を読む人、学ぶ人にとって、人生における大きな資本を手に入れたようなものです。
聖書を読んで、人生に聖書という資本を投入すると必ず祝福となって返ってくるのです。
また、聖書は、人生において、聖書の聖句との出会い、人と人の出会い、大切な神様との出会いを与えてくれます。その出会いは、心躍る経験です。
さて、聖書読むときに大切なことが二つあります。
一つは、素直な心で聖書を読むこと、
二つ目は、素直な心を維持しながら、謙虚に聖句を詳しく調べ、研究することです。
そのことが使徒言行録17章11節(新約247ページ)を見ると出ています。
「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」とあります。
ここに、素直という言葉が出ています。素直な心で、ベレアの人は、聖書を読んでいたのです。熱心に、毎日、聖書を調べ、研究していたのです。
さて、素直に聖書を読む例を見てみましょう。
一人の日本人牧師が、ドイツで語学研修の体験を書いています。
南ドイツの小さな町にある全生徒20人弱と言う小さな語学学校でドイツ語の研修を受けていました。日本人は、その牧師ともう一人いました。
ところで、本人も予測しなかったことが起こりました。それは、母国語に飢えるということでした。
二ヶ月の間、ほとんど日本語を口にせず、耳で聞くこともできませんでした。そのため、ひと月もすると、母国語で会話をしたい、それ以上に母国語で聞きたいという飢えに悩まされたのです。
語学学校で友人となった日本人とは、普段もドイツ語で会話をしていたのです。ところが、どうしたことか、ドイツ語で表現できないのか、愚痴と不満だけは、日本語でもらしあっていたそうです。
すると、夜、眠りにつくとき、昼間に聞いた愚痴と不満の日本語だけが耳に残っているのです。また、自分が口にした汚い日本語だけが耳から消えないのです。汚い言葉だけが、頭の中をぐるぐると巡り、やがて眠れなくなる。しばらくそのような夜が続いたようです。
いろいろ悩んだ挙句、その牧師は、自分で自分の耳に日本語を聞かせるという方法を試みたそうです。
聖書、特に詩篇の言葉を何度も何度も声に出して朗読し、自分で自分の耳に聞かせることを寝る前に行うようにしました。
すると、聞いた汚い言葉は消えていき、聖書の言葉が心に染み入るように響き渡ったのです。
そこで、二つのことを思ったそうです。
一つは、日本に残した家族のことでした。特に、奥さんにいつも愚痴と不満ばかりを述べてきた自分を思い出したのです。妻の心にも汚い言葉が残り、妻を苦しめたのではないかと反省したと言うのです。
もう一つは、聖書の言葉そのものがこんなにも力を持っている、と言うことにあらためて気づかされたそうです。
一つ一つの言葉が心の中に深く沈んでいく。そして、暗く沈んだ心の底で静かに光を放ち始める。
牧師を慰めたのは、神をほめたたえる言葉だけではなく、詩篇の中にある、嘆きの言葉もそうでした。朗読する中で、聖書の言葉が、まるで形にならなかった嘆きを形にし、得体の知れなかった不安に輪郭を与えられるような思いで、聖書の言葉を口にし、耳で聞いたのです。
このようにして、心が変えられたのでした。
大事なことは、聖書を、素直に読むことです。よく言われることです。私も、聖書を素直に読むことにしています。
次に、聖書を詳しく調べる例を見てみましょう。
ベレアの人たちは、素直に読みました、同時に聖書を熱心に調べたのです。
素直に読む、素直な心で読む、と同時に、さらに正しい教えかどうかを知るために、正確を期すためにも、聖書を調べたのです。
※「調べる」の原語の意味:①1審問する、問いただす、取り調べる。②吟味する、精査する、調べる。③評価を下す:という意味があります。
その例として、先ほどドイツで勉強した、牧師の話をもう一つしたいと思います。
牧師になってまもない頃の話だそうです。
48歳の歯科医の若い先生が亡くなられて、葬儀の説教をしなければならなくなりました。突然のしかもまだ働き盛りの歯医者の先生の葬儀です。悲しみにくれるご家族のことを思うと説教の言葉が浮かんでこない。出てこないのです。
そのような中で、ヤイロの出来事を思い出したのです(マルコによる福音書5章21節〜24節、35節〜43節新約70ページ)。
ヤイロの娘が死んで、使いがやって来ます。「お嬢さんはなくなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と伝えます。
ヤイロは、一言も発しません。
牧師は、こう言うのです。
「アダム以来、この知らせを聞いて、誰一人として返答することができず、反論すら唱えられなかった。わたしは、そこで気づいたのです。しかし、ここで、主イエスは、言葉を発しておられるではないか!『恐ることはない。ただ信じなさい』と。
慌てて聖書原典を開き、元の言葉を調べてみました。ここの『ただ』という言葉は、原点では、『一つ』という言葉。『この一つを信じなさい』と主イエスは語っている。
なんと大きな一つだろう、と私は思いました。死を前にした一つの光がここにある。たった一つであっても、死を前にしても、なお言葉をもつことができる。たったおひとり、言葉を持ちえる方がいる。
『ただ』という一つの言葉を通して、主イエスに対する確信をましたのです。『ただ』という、言葉を調べることで、牧師としての大きな転換点を迎える出来事をとなったのです。」
牧師は、素直にに聖書を読むことによって心が癒されましたが、更に聖書の言葉を調べることによって、死を前にして言葉を失い、なすすべも無いとき、聖書から深い確信を得たのでした。
素直な心で聖書を読む、さらに素直な心で聖書調べる、この二つは、聖書を学ぶ上で大切なことです。
そして、聖書の御言葉をみ言葉を発見してください。
(ブログ:「幸せを約束する聖書の言葉」より)
(2012年11月12日美浜文化ホール聖書文化講座にて)