黙示録2章、3章・・・七つの教会(続き) ラオディキアの教会

 
 ラオディキアの教会(3:14〜22)


 ラオディキアの意味は、民を裁く、裁きを宣言するという意味等があります。

 ラオディキアの町はセレウコス朝アンティオコス二世(前261−246年)によって建てられ、妻の名ラオディケ−にちなんで名付けられました。
フィラデルフィアから南東約65キロ〜70キロのところに位置しエペソの東方おおよそ150キロ〜160キロのところにあります(地図参照)。

 町はフルギアに属する小アジア西方の重要な町で、ミアンダー河(メアンデル川)の支流ルーカス河(リュコス川)沿いにあり、エフェソからシリアに通じる幹線道路やその他の道路が交わり交通の便が良い場所にありました。

 交通の便利さが、ローマ時代に商業、経済の発展に恵まれ、特に銀行の中心地でした。産業は羊毛生産が盛んで、黒紫色の光沢のあるやわらかい羊毛がとれたといわれます。ラオデキィアの経済的繁栄は、羊毛の生産と銀行取引による収入によるのが大きかったのです。その経済力は、紀元60年の地震の際に、町が崩壊してその再建ために、皇帝の援助を断り自力で町を再建したことにも示されています。

 ラオディキアには有名な医学校があり、特に知られていたのは目薬で「フルギアの粉末」と油を交ぜたもので作られました。

 ラオデキィアが経済的に恵まれていたために、人々はそのことを誇りとしていました。その精神は教会にも浸透していました。

 以下に節を追ってみていきましょう。


14節
「ラオデキィアにある教会の天使にこう書き送れ。
 アーメンである方、
 誠実で真実な証人、
 神に創造された万物の源である方が、
 次のように言われる」


 14節において、イエス・キリストについて「アーメンである方」、「誠実で真実な証人」、「神に創造された万物の源である方」と表現されています。

 まず、教会の集会でまたキリスト者の祈りの中で「アーメン」と唱えるその用語についての解説を新共同訳聖書辞典より引用しておきます。

 「ヘブライ語で『まことに、真実に』の意。キリスト教の重要な礼拝用語の一つ。ユダヤ教の会堂における礼拝の慣習を踏襲し、説教および祈祷に同意を表明するために唱和する(旧約、代上16:36、詩編41:14、72:19、新約、ガラ1:5、エフェソ3:21他)。

 後代のユダヤ教の慣習では、民数記6:24−26(旧約、221ページ)の祝祷の三句に応ずるアーメンを唱えた。

 教会でも賛美、感謝に対する唱和のアーメンが知られていた(一コリ14:16と黙5:14参照)。

 厳粛な誓いの受託に「アーメン」が要求されたが、ギリシャ訳はその場合「そのようになりますように」という、希求法で表現している(民5:22、申27:15−26)。

 アーメンの特殊な用法はコリントの信徒への手紙二1:19−20の「然り」(新約326ページ)に見られる。この用法では、神の約束は常に真実であり、教会はこれを「アーメン、然り、そのとおりです」として受けるべきであるとする。

 黙示録3:14では「アーメンである方」として人格化され、神の約束の真の保障者としての主イエスについての引用。

 福音書における最も著しいことは、主イエスの話の最初に「アーメン、わたしは言う」(ギリシャ語ではアーメン、レゴー」、新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されている)がこのような表現は旧約にもラビ文献にもなく、全く福音書独特のもので、主イエスの言葉が神からきているという、究極の権威を示すものである。ギリシャ語聖書でアーメンの単語は共観福音書に94回、ヨハネ福音書には「アーメン、アーメン」と重複して重みを持たせ、25回用いられる。」(新共同訳聖書辞典、29−30ページ)

 ※なお、新共同訳聖書裏表紙の「用語解説、アーメンの項参照(20)」


 聖書辞典解説を頭に入れながら、「アーメンである方」の説明に戻りましょう。

 「アーメンである方」は、旧約聖書、イザヤ65章16節(旧1168ページ)に「真実の神」ヘブル語で「アーメンの神」となっています。その「アーメンの神を」キリストにあてはめたと思われます。そして、バークレーはこの聖句に対して「アーメンと呼ばれる神は全面的に信頼でき、その言葉は安心して受け入れられ、その約束は確実に果たされる方なのである」と述べています。
 
 また、新約聖書ヨハネによる福音書3章3節、5節、11節(新約167ページ)に「はっきり言っておく」という言葉が使われていますが〔口語訳では「よくよく言っておく」〕、ギリシャ語では「アーメン、アーメン、わたしはあなた方に言う」です。その言葉の意味もイエス・キリストが真理を真実を込めて語っておられることを示しています。そのことも「アーメンである方」の背景になっていると考えられます。

 「アーメンである方」とイエス・キリストが呼ばれるのに、黙示録1章7節の聖句も参考になります。


「見よ、その方が雲に乗って来られる。
 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
 ことに、彼を突き刺した者どもは。
 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
 然り、アーメン。」

 ここで、1:14のアーメンに関する今道瑤子氏の解説を参考の為載せておきます。
 
 「新約のなかで、アーメンがキリストの属性として使われる唯一の例です。この表現の元になている考えは何でしょうか。イザヤ書65章16〜19節が考えられます。


 「この地で祝福される人は
 真実の神(エロへ−・ア−メン)によって祝福され
 この地で誓う人は真実の神によって誓う。
 初めから苦しみは忘れる。
 わたしの目から隠されるからである。
 見よ、わたしは新しい天と地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。
 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして 
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。
 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、そのなかに響くことがない(イザヤ65:16〜19)」


 「ア−メンである方」は神の側の約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間の側のポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の二つながらを一身に具現しておられるキリストを表す名です。キリストは神の忠実を表すとともに、約束が有効であることをあかしし、その具体的な実現を推し進める方を意味していると同時に、神のイニシアティブに対する教会の決定的な「はい」をも代表しておられます。」
(今道瑤子、ヨハネ黙示録を読む65〜66ページ)

 次に、「誠実で真実な証人」をみていきましょう。

 「誠実で真実な証人」とは神の約束の確かな証人であるということです。神がメシアをこの世に送り人々を救うと約束されたことを、イエス・キリストは地上で忠実に果たされました。そして、復活、昇天され神の右の座についおられるイエス・キリストは、いまなお神の約束について誠実で真実な証人であり、実行者です。同じく関連する聖句として、黙示録1章5節の「証人、誠実な方」を参照。

 「神に創造された万物の源である方」、ヨハネによる福音書1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった」(新約163ページ)とあるように、イエス・キリストがすべてのものの創造者であり、根源であることが分かります。

 また、コロサイ1章16節(新約368〜369ページ)を見るとイエス・キリストは万物の創造者であり王座も主権も支配も権威を持っていることが分かります。

 「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために作られました」(コロサイ1:16)。

 コロサイの信徒への手紙は(新約聖書)はパウロが、ローマの獄中からコロサイの教会の信徒へ送った手紙です。コロサイはラオデキィアに近く、東の10キロ〜11キロの地点にありました。パウロは、コロサイ4:16で次のように述べています。

 「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオデキィアの教会で読まれるように、取り計らってください。また、ラオデキィキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」(コロサイ1:16)。

 パウロの教えが手紙を通して伝えられているところから見ると、ヨハネと同じく、イエス・キリストが万物の創造者であり、支配と権威を持っているお方として、ラオデキィアの教会もコロサイの教会の人たちも理解していたことが分かります。

 ラオデキィア教会に対して、キリストは御自身を、誠実で真実な証人であるアーメンである神として紹介し、万物を創造された源として絶対的な権威を持っておられる唯一のお方として示しておられる。
 
 ラオデキィア教会が、正しいキリストとの関係から離れている状態を明らかにし、その正しい状態に回復するお方として示しておられる。
 
 14節に表されたキリストのお姿の中に、道からそれて、危ない方向へ歩んでいるその子供に、痛切な思いを胸に抱いて呼びかける親の姿を見る思いがします。


15節、16節
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもないない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」


 「冷たくもなく熱くもない」、イエス・キリストのラオデキィアに対する理解は、冷たくもなく熱くもない状態であるというのです。この表現は、物理的な水のことを言っているのではなく、教会の神に対する信仰の姿勢を比喩的に表しているのです。16節に「なまるい」という言葉が出てきますが、教会はそのような状態でした。

 ラオデキィアの町で使用する水は、ヒエラポリスの町から熱い水を送ってもらっていたと言われます。ヒエラポリスは、ラオデキィアから北の10キロの地点にありました。熱い水がラオデキィアに着くころには生ぬるい状態になっていて、風呂水には良いとしても、飲むには16節に「吐き出す」とあるようにまずい味でした。

 バークレーは「冷たい」というギリシャ語は、水が凍るほどの冷たさをあらわし、「熱い」という言葉は、沸騰するほどの熱さをあらわすと説明しています。さらに、バークレーは「熱い食物も冷たい食物も食欲をそそるが、なまぬるい食物は吐き出したくなる場合が多い」と述べています。

 「なまぬるい」、イエス・キリストのラオデキィア教会に対する認識は、「なまぬるい」状態であるということを述べましたが、日本語の辞書で、「なまぬるい」を引いてみると、「温度がはんぱで、あまり気持がよくない」、「はっきりしない(性格)」など、他にも幾つか表現されています。水について言えば、生ぬるいお湯は美味しくなく、人間の性格に関して言えば、優柔不断を表し、どっちつかずの人間をあらわします。

 「口から吐き出そうとしている」、なまぬるい水は美味しくないので吐き出してしまいます。ここで言われている「吐き出す」は、ラオデキィアの教会の人々のことです。なまぬるい水を吐き出すように、教会のなまぬるい人たちを「吐き出す」と言われます。

 これはどういうことでしょう。なまぬるい、中途半端なそして優柔不断な人は信頼するわけにはいきません。果たして責任を持ってやってくれるかどうか信用できないのです。教会がその信仰においてなまぬるいと、神の御心を任せることが出来ないばかりか、むしろ神の御業に障害にさえなりかねないのです。「吐き出す」はラオデキィア教会に対する神の厳しい姿勢をみます。しかし、そのようなラオデキィア教会に懇切な解決の道を18節以降に与えておられます。


17節
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。


 「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」、17節のこの言葉は、ラオデキィアの教会がなまぬるい状態に陥った原因を記しています。それは、ラオデキィアという町の経済的繁栄がもたらす精神的風潮が、教会の中に、知らない内に浸透していたからです。なまぬるい結果をもたらす「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という無意識の精神でした。

 金融機関の中心地でもあり、羊毛の産地として収入があり、目薬も当時の国々へ輸出していました。経済的に恵まれていたため、紀元60年の地震で町が崩壊し、再建するに当たって、皇帝の援助を断り、自力で町を再建すほどでした。
 教会員もその土地で生活している以上、社会の流れの中にあって、その精神が無意識のうちに、心を形成していくのは無理のないことだったでしょう。

「自分は惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」 


黙示録2章3章七つの教会(続き6)
 
ラオディキアの教会(3:14〜22)

ラオディキアの意味は、民を裁く、裁きを宣言するという意味等があります。

 ラオディキアの町はセレウコス朝アンティオコス二世(前261−246年)によって建てられ、妻の名ラオディケ−にちなんで名付けられました。
フィラデルフィアから南東約65キロ〜70キロのところに位置しエペソの東方おおよそ150キロ〜160キロのところにあります(地図参照)。
 町はフルギアに属する小アジア西方の重要な町で、ミアンダー河(メアンデル川)の支流ルーカス河(リュコス川)沿いにあり、エフェソからシリアに通じる幹線道路やその他の道路が交わり交通の便が良い場所にありました。
 交通が便利さが、ローマ時代に商業、経済の発展に恵まれ、特に銀行の中心地でした。 産業は羊毛生産が盛んで、黒紫色の光沢のあるやわらかい羊毛がとれたといわれます。 ラオデキィアの経済的繁栄は、羊毛の生産と銀行取引による収入によるのが大きかったのです。その経済力は、紀元60年の地震の際に、町が崩壊してその再建ために、皇帝の援助を断り自力で町を再建したことにも示されています。
 ラオディキアには有名な医学校があり、特に知られていたのは目薬で「フルギアの粉末」と油を交ぜたもので作られました。
 ラオデキィアが経済的に恵まれていたために、人々はそのことを誇りとしていました。その精神は教会にも浸透していました。

 以下に節を追ってみていきましょう。

14節
「ラオデキィアにある教会の天使にこう書き送れ。
 アーメンである方、
 誠実で真実な証人、
 神に創造された万物の源である方が、
 次のように言われる」

 14節において、イエス・キリストについて「アーメンである方」、「誠実で真実な証人」、「神に創造された万物の源である方」と表現されています。

 まず、教会の集会でまたキリスト者の祈りの中で「アーメン」と唱えるその用語についての解説を新共同訳聖書辞典より引用しておきます。

ヘブライ語で『まことに、真実に』の意。キリスト教の重要な礼拝用語の一つ。ユダヤ教の会堂における礼拝の慣習を踏襲し、説教および祈祷に同意を表明するために唱和する(旧約、代上16:36、詩編41:14、72:19、新約、ガラ1:5、エフェソ3:21他)。
 後代のユダヤ教の慣習では、民数記6:24−26(旧約、221ページ)の祝祷の三句に応ずるアーメンを唱えた。
 教会でも賛美、感謝に対する唱和のアーメンが知られていた(一コリ14:16と黙5:14参照)。
 厳粛な誓いの受託に「アーメン」が要求されたが、ギリシャ訳はその場合「そのようになりますように」という、希求法で表現している(民5:22、申27:15−26)。
 アーメンの特殊な用法はコリントの信徒への手紙二1:19−20の「然り」(新約326ページ)に見られる。この用法では、神の約束は常に真実であり、教会はこれを「アーメン、然り、そのとおりです」として受けるべきであるとする。
 黙示録3:14では「アーメンである方」として人格化され、神の約束の真の保障者としての主イエスについての引用。
 福音書における最も著しいことは、主イエスの話の最初に「アーメン、わたしは言う」(ギリシャ語ではアーメン、レゴー」、新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されている)がこのような表現は旧約にもラビ文献にもなく、全く福音書独特のもので、主イエスの言葉が神からきているという、究極の権威を示すものである。ギリシャ語聖書でアーメンの単語は共観福音書に94回、ヨハネ福音書には「アーメン、アーメン」と重複して重みを持たせ、25回用いられる。
 「新共同訳聖書辞典、29−30ページ」
 ※なお、新共同訳聖書裏表紙の「用語解説、アーメンの項参照(20)」

 聖書辞典解説を頭に入れながら、「アーメンである方」の説明に戻りましょう。
「アーメンである方」は、旧約聖書、イザヤ65章16節(旧1168ページ)に「真実の神」ヘブル語で「アーメンの神」となっています。その「アーメンの神を」キリストにあてはめたと思われます。そして、バークレーはこの聖句に対して「アーメンと呼ばれる神は全面的に信頼でき、その言葉は安心して受け入れられ、その約束は確実に果たされる方なのである」と述べています。また、
 新約聖書ヨハネによる福音書3章3節、5節、11節(新約167ページ)に「はっきり言っておく」という言葉が使われていますが〔口語訳では「よくよく言っておく」〕、ギリシャ語では「アーメン、アーメン、わたしはあなた方に言う」です。その言葉の意味もイエス・キリストが真理を真実を込めて語っておられることを示しています。そのことも「アーメンである方」の背景になっていると考えられます。
 「アーメンである方」とイエス・キリストが呼ばれるのに、黙示録1章7節の聖句も参考になります。
「見よ、その方が雲に乗って来られる。
 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
 ことに、彼を突き刺した者どもは。
 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
 然り、アーメン。」

 ここで、1:14のアーメンに関する今道瑤子氏の解説を参考ためのせておきます。

「新約のなかで、アーメンがキリストの属性として使われる唯一の例です。この表現の元になている考えは何でしょうか。イザヤ書65章16〜19節が考えられます。
 この地で祝福される人は
 真実の神(エロへ−・ア−メン)によって祝福され
 この地で誓う人は真実の神によって誓う。
 初めから苦しみは忘れる。
 わたしの目から隠されるからである。
 見よ、わたしは新しい天と地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。
 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして 
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。
 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、そのなかに響くことがない(イザヤ65:16〜19)」
「あ−メンである方」は神のがわの約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のがわのポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の二つながらを一身に具現しておられるキリストを表す名です。キリストは神の忠実を表すとともに、約束が有効であることをあかしし、その具体的な実現を推し進める方を意味していると同時に、神のイニシアティブに対する教会の決定的な「はい」をも代表しておられます。」
(今道瑤子、ヨハネ黙示録を読む65〜66ページ)

次に、「誠実で真実な証人」をみていきましょう。
「誠実で真実な証人」とは神の約束の確かな証人であるということです。神がメシアをこの世に送り人々を救うと約束されたことを、イエス・キリストは地上で忠実に果たされました。そして、復活、昇天され神の右の座についおられるイエス・キリストは、いまなお神の約束について誠実で真実な証人であり、実行者です。同じく関連する聖句として、黙示録1章5節の「証人、誠実な方」を参照。

「神に創造された万物の源である方」、ヨハネによる福音書1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった」(新約163ページ)とあるように、イエス・キリストがすべてのものの創造者であり、根源であることが分かります。
 また、コロサイ1章16節(新約368〜369ページ)を見るとイエス・キリストは万物の創造者であり王座も主権も支配も権威を持っていることが分かります。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために作られました」(コロサイ1:16)。

 コロサイの信徒への手紙は(新約聖書)はパウロが、ローマの獄中からコロサイの教会の信徒へ送った手紙です。コロサイはラオデキィアに近く、東の10キロ〜11キロの地点にありました。パウロは、コロサイ4:16で次のように述べています。
「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオデキィアの教会で読まれるように、取り計らってください。また、ラオデキィキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」(コロサイ1:16)。
 パウロの教えが手紙を通して伝えられているところから見ると、ヨハネと同じく、イエス・キリストが万物の創造者であり、支配と権威を持っているお方として、ラオデキィアの教会もコロサイの教会の人たちも理解していたことが分かります。

 ラオデキィア教会に対して、キリストは御自身を、誠実で真実な証人であるアーメンである神として紹介し、万物を創造された源として絶対的な権威を持っておられる唯一のお方として示しておられる。
 ラオデキィア教会が、正しいキリストとの関係から離れている状態を明らかにし、その正しい状態に回復するお方として示しておられる。
 14節に表されたキリストのお姿の中に、道からそれて、危ない方向へ歩んでいるその子供に、痛切な思いを胸に抱いて呼びかける親の姿を見る思いがします。

15節、16節
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもないない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」

「冷たくもなく熱くもない」、イエス・キリストのラオデキィアに対する理解は、冷たくもなく熱くもない状態であるというのです。この表現は、物理的な水のことを言っているのではなく、教会の神に対する信仰の姿勢を比喩的に表しているのです。16節に「なまるい」という言葉が出てきますが、教会はそのような状態でした。

ラオデキィアの町で使用する水は、ヒエラポリスの町から熱い水を送ってもらっていたと言われます。ヒエラポリスは、ラオデキィアから北の10キロの地点にありました。熱い水がラオデキィアに着くころには生ぬるい状態になっていて、風呂水には良いとしても、飲むには16節に「吐き出す」とあるようにまずい味でした。

バークレーは「冷たい」というギリシャ語は、水が凍るほどの冷たさをあらわし、「熱い」という言葉は、沸騰するほどの熱さをあらわすと説明しています。さらに、バークレーは「熱い食物も冷たい食物も食欲をそそるが、なまぬるい食物は吐き出したくなる場合が多い」と述べています。

「なまぬるい」、イエス・キリストのラオデキィア教会に対する認識は、「なまぬるい」状態であるということを述べましたが、日本語の辞書で、「なまぬるい」を引いてみると、「温度がはんぱで、あまり気持がよくない」、「はっきりしない(性格)」など、他にも幾つか表現されています。水について言えば、生ぬるいお湯は美味しくなく、人間の性格に関して言えば、優柔不断を表し、どっちつかずの人間をあらわします。

「口から吐き出そうとしている」、なまぬるい水は美味しくないので吐き出してしまいます。ここで言われている「吐き出す」は、ラオデキィアの教会の人々のことです。なまぬるい水を吐き出すように、教会のなまぬるい人たちを「吐き出す」と言われます。
これはどういうことでしょう。なまぬるい、中途半端なそして優柔不断な人は信頼するわけにはいきません。果たして責任を持ってやってくれるかどうか信用できないのです。教会がその信仰においてなまぬるいと、神の御心を任せることが出来ないばかりか、むしろ神の御業に障害にさえなりかねないのです。「吐き出す」はラオデキィア教会に対する神の厳しい姿勢をみます。しかし、そのようなラオデキィア教会に懇切な解決の道を18節以降に与えておられます。

17節
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」、17節のこの言葉は、ラオデキィアの教会がなまぬるい状態に陥った原因を記しています。それは、ラオデキィアという町の経済的繁栄がもたらす精神的風潮が、教会の中に、知らない内に浸透していたからです。なまぬるい結果をもたらす「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という無意識の精神でした。
 金融機関の中心地でもあり、羊毛の産地として収入があり、目薬も当時の国々へ輸出していました。経済的に恵まれていたため、紀元60年の地震で町が崩壊し、再建するに当たって、皇帝の援助を断り、自力で町を再建すほどでした。
 教会員もその土地で生活している以上、社会の流れの中にあって、その精神が無意識のうちに、心を形成していくのは無理のないことだったでしょう。

「自分は惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」 


黙示録2章3章七つの教会(続き6)
 
ラオディキアの教会(3:14〜22)

ラオディキアの意味は、民を裁く、裁きを宣言するという意味等があります。

 ラオディキアの町はセレウコス朝アンティオコス二世(前261−246年)によって建てられ、妻の名ラオディケ−にちなんで名付けられました。
フィラデルフィアから南東約65キロ〜70キロのところに位置しエペソの東方おおよそ150キロ〜160キロのところにあります(地図参照)。
 町はフルギアに属する小アジア西方の重要な町で、ミアンダー河(メアンデル川)の支流ルーカス河(リュコス川)沿いにあり、エフェソからシリアに通じる幹線道路やその他の道路が交わり交通の便が良い場所にありました。
 交通が便利さが、ローマ時代に商業、経済の発展に恵まれ、特に銀行の中心地でした。 産業は羊毛生産が盛んで、黒紫色の光沢のあるやわらかい羊毛がとれたといわれます。 ラオデキィアの経済的繁栄は、羊毛の生産と銀行取引による収入によるのが大きかったのです。その経済力は、紀元60年の地震の際に、町が崩壊してその再建ために、皇帝の援助を断り自力で町を再建したことにも示されています。
 ラオディキアには有名な医学校があり、特に知られていたのは目薬で「フルギアの粉末」と油を交ぜたもので作られました。
 ラオデキィアが経済的に恵まれていたために、人々はそのことを誇りとしていました。その精神は教会にも浸透していました。

 以下に節を追ってみていきましょう。

14節
「ラオデキィアにある教会の天使にこう書き送れ。
 アーメンである方、
 誠実で真実な証人、
 神に創造された万物の源である方が、
 次のように言われる」

 14節において、イエス・キリストについて「アーメンである方」、「誠実で真実な証人」、「神に創造された万物の源である方」と表現されています。

 まず、教会の集会でまたキリスト者の祈りの中で「アーメン」と唱えるその用語についての解説を新共同訳聖書辞典より引用しておきます。

ヘブライ語で『まことに、真実に』の意。キリスト教の重要な礼拝用語の一つ。ユダヤ教の会堂における礼拝の慣習を踏襲し、説教および祈祷に同意を表明するために唱和する(旧約、代上16:36、詩編41:14、72:19、新約、ガラ1:5、エフェソ3:21他)。
 後代のユダヤ教の慣習では、民数記6:24−26(旧約、221ページ)の祝祷の三句に応ずるアーメンを唱えた。
 教会でも賛美、感謝に対する唱和のアーメンが知られていた(一コリ14:16と黙5:14参照)。
 厳粛な誓いの受託に「アーメン」が要求されたが、ギリシャ訳はその場合「そのようになりますように」という、希求法で表現している(民5:22、申27:15−26)。
 アーメンの特殊な用法はコリントの信徒への手紙二1:19−20の「然り」(新約326ページ)に見られる。この用法では、神の約束は常に真実であり、教会はこれを「アーメン、然り、そのとおりです」として受けるべきであるとする。
 黙示録3:14では「アーメンである方」として人格化され、神の約束の真の保障者としての主イエスについての引用。
 福音書における最も著しいことは、主イエスの話の最初に「アーメン、わたしは言う」(ギリシャ語ではアーメン、レゴー」、新共同訳では「はっきり言っておく」と訳されている)がこのような表現は旧約にもラビ文献にもなく、全く福音書独特のもので、主イエスの言葉が神からきているという、究極の権威を示すものである。ギリシャ語聖書でアーメンの単語は共観福音書に94回、ヨハネ福音書には「アーメン、アーメン」と重複して重みを持たせ、25回用いられる。
 「新共同訳聖書辞典、29−30ページ」
 ※なお、新共同訳聖書裏表紙の「用語解説、アーメンの項参照(20)」

 聖書辞典解説を頭に入れながら、「アーメンである方」の説明に戻りましょう。
「アーメンである方」は、旧約聖書、イザヤ65章16節(旧1168ページ)に「真実の神」ヘブル語で「アーメンの神」となっています。その「アーメンの神を」キリストにあてはめたと思われます。そして、バークレーはこの聖句に対して「アーメンと呼ばれる神は全面的に信頼でき、その言葉は安心して受け入れられ、その約束は確実に果たされる方なのである」と述べています。また、
 新約聖書ヨハネによる福音書3章3節、5節、11節(新約167ページ)に「はっきり言っておく」という言葉が使われていますが〔口語訳では「よくよく言っておく」〕、ギリシャ語では「アーメン、アーメン、わたしはあなた方に言う」です。その言葉の意味もイエス・キリストが真理を真実を込めて語っておられることを示しています。そのことも「アーメンである方」の背景になっていると考えられます。
 「アーメンである方」とイエス・キリストが呼ばれるのに、黙示録1章7節の聖句も参考になります。
「見よ、その方が雲に乗って来られる。
 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
 ことに、彼を突き刺した者どもは。
 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
 然り、アーメン。」

 ここで、1:14のアーメンに関する今道瑤子氏の解説を参考ためのせておきます。

「新約のなかで、アーメンがキリストの属性として使われる唯一の例です。この表現の元になている考えは何でしょうか。イザヤ書65章16〜19節が考えられます。
 この地で祝福される人は
 真実の神(エロへ−・ア−メン)によって祝福され
 この地で誓う人は真実の神によって誓う。
 初めから苦しみは忘れる。
 わたしの目から隠されるからである。
 見よ、わたしは新しい天と地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。
 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして 
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。
 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、そのなかに響くことがない(イザヤ65:16〜19)」
「あ−メンである方」は神のがわの約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のがわのポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の二つながらを一身に具現しておられるキリストを表す名です。キリストは神の忠実を表すとともに、約束が有効であることをあかしし、その具体的な実現を推し進める方を意味していると同時に、神のイニシアティブに対する教会の決定的な「はい」をも代表しておられます。」
(今道瑤子、ヨハネ黙示録を読む65〜66ページ)

次に、「誠実で真実な証人」をみていきましょう。
「誠実で真実な証人」とは神の約束の確かな証人であるということです。神がメシアをこの世に送り人々を救うと約束されたことを、イエス・キリストは地上で忠実に果たされました。そして、復活、昇天され神の右の座についおられるイエス・キリストは、いまなお神の約束について誠実で真実な証人であり、実行者です。同じく関連する聖句として、黙示録1章5節の「証人、誠実な方」を参照。

「神に創造された万物の源である方」、ヨハネによる福音書1章3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった」(新約163ページ)とあるように、イエス・キリストがすべてのものの創造者であり、根源であることが分かります。
 また、コロサイ1章16節(新約368〜369ページ)を見るとイエス・キリストは万物の創造者であり王座も主権も支配も権威を持っていることが分かります。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために作られました」(コロサイ1:16)。

 コロサイの信徒への手紙は(新約聖書)はパウロが、ローマの獄中からコロサイの教会の信徒へ送った手紙です。コロサイはラオデキィアに近く、東の10キロ〜11キロの地点にありました。パウロは、コロサイ4:16で次のように述べています。
「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオデキィアの教会で読まれるように、取り計らってください。また、ラオデキィキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」(コロサイ1:16)。
 パウロの教えが手紙を通して伝えられているところから見ると、ヨハネと同じく、イエス・キリストが万物の創造者であり、支配と権威を持っているお方として、ラオデキィアの教会もコロサイの教会の人たちも理解していたことが分かります。

 ラオデキィア教会に対して、キリストは御自身を、誠実で真実な証人であるアーメンである神として紹介し、万物を創造された源として絶対的な権威を持っておられる唯一のお方として示しておられる。
 ラオデキィア教会が、正しいキリストとの関係から離れている状態を明らかにし、その正しい状態に回復するお方として示しておられる。
 14節に表されたキリストのお姿の中に、道からそれて、危ない方向へ歩んでいるその子供に、痛切な思いを胸に抱いて呼びかける親の姿を見る思いがします。

15節、16節
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもないない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」

「冷たくもなく熱くもない」、イエス・キリストのラオデキィアに対する理解は、冷たくもなく熱くもない状態であるというのです。この表現は、物理的な水のことを言っているのではなく、教会の神に対する信仰の姿勢を比喩的に表しているのです。16節に「なまるい」という言葉が出てきますが、教会はそのような状態でした。

ラオデキィアの町で使用する水は、ヒエラポリスの町から熱い水を送ってもらっていたと言われます。ヒエラポリスは、ラオデキィアから北の10キロの地点にありました。熱い水がラオデキィアに着くころには生ぬるい状態になっていて、風呂水には良いとしても、飲むには16節に「吐き出す」とあるようにまずい味でした。

バークレーは「冷たい」というギリシャ語は、水が凍るほどの冷たさをあらわし、「熱い」という言葉は、沸騰するほどの熱さをあらわすと説明しています。さらに、バークレーは「熱い食物も冷たい食物も食欲をそそるが、なまぬるい食物は吐き出したくなる場合が多い」と述べています。

「なまぬるい」、イエス・キリストのラオデキィア教会に対する認識は、「なまぬるい」状態であるということを述べましたが、日本語の辞書で、「なまぬるい」を引いてみると、「温度がはんぱで、あまり気持がよくない」、「はっきりしない(性格)」など、他にも幾つか表現されています。水について言えば、生ぬるいお湯は美味しくなく、人間の性格に関して言えば、優柔不断を表し、どっちつかずの人間をあらわします。

「口から吐き出そうとしている」、なまぬるい水は美味しくないので吐き出してしまいます。ここで言われている「吐き出す」は、ラオデキィアの教会の人々のことです。なまぬるい水を吐き出すように、教会のなまぬるい人たちを「吐き出す」と言われます。
これはどういうことでしょう。なまぬるい、中途半端なそして優柔不断な人は信頼するわけにはいきません。果たして責任を持ってやってくれるかどうか信用できないのです。教会がその信仰においてなまぬるいと、神の御心を任せることが出来ないばかりか、むしろ神の御業に障害にさえなりかねないのです。「吐き出す」はラオデキィア教会に対する神の厳しい姿勢をみます。しかし、そのようなラオデキィア教会に懇切な解決の道を18節以降に与えておられます。

17節
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。

「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」、17節のこの言葉は、ラオデキィアの教会がなまぬるい状態に陥った原因を記しています。それは、ラオデキィアという町の経済的繁栄がもたらす精神的風潮が、教会の中に、知らない内に浸透していたからです。なまぬるい結果をもたらす「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という無意識の精神でした。
 金融機関の中心地でもあり、羊毛の産地として収入があり、目薬も当時の国々へ輸出していました。経済的に恵まれていたため、紀元60年の地震で町が崩壊し、再建するに当たって、皇帝の援助を断り、自力で町を再建すほどでした。
 教会員もその土地で生活している以上、社会の流れの中にあって、その精神が無意識のうちに、心を形成していくのは無理のないことだったでしょう。

「自分は惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」 

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